This is a book.
This is a famous book.
こういう〈This is ~.〉という文を訳せない子どもたちがいます。中学1年生だけではありません。ある程度、be動詞の文(例えば My sister is tall.)を作れるような3年生の中にも、〈This is a book.〉をパッと訳せない子がいるのです。
私は英語を教え始めた頃、そのことに驚きました。〈This is ~.〉という文を訳すことはそれほど難しくないだろうと、軽く見ていたのです。ですが、実際は子どもたちにとって、それは必ずしも簡単ではなかったのです。
では、なぜ〈This is ~.〉をうまく訳せないのでしょう? 私はそれを知りたくていろいろ考えてみたのですが、「母語力の影響なのではないか?」と思うに至りました。
母語力とは?
母語とは、人が成長する中で自然に身に付けた言語のことです。そして、この母語をうまく使う能力が母語力(母語の運用能力)です。具体的には、たとえば自分の考えを相手に伝えたり、物事を論理的に考えたりする力のことです。
〈This is ~.〉という文を訳せない理由
では母語力が低いと、なぜ〈This is ~.〉という文を訳せないのでしょう? この文を訳す上で、どんな問題にぶつかるのでしょう? その例をご紹介します。
「この」と「これ」の違いが分からない
this の訳し方には大きく分けて2つありますよね。「これ」(代名詞)と「この」(形容詞)です。
母語力の低い子どもたちの中には、これら2つの違いをなかなか理解できず、その結果〈This is ~.〉を訳せない子がいます。
例えば〈This is a famous book.〉という文を、「この本は有名だ」と訳したりするのです。
「この」の後ろには〈物〉や〈人〉が必要だけど、「これ」の場合は、それだけで何を指しているのかが分かる。その大きな違いをまずは母語で理解しておかないと、〈This is ~.〉は訳せません。
こういう2つの違いを意識せず、単に「この」や「これ」といった訳語を記憶しただけの子は、どちらかパッと頭に浮かんだほうを使ってしまうのでしょう。そのため、〈This is a famous book.〉を「この本は有名だ」と訳してしまうのかもしれません。
「この本」と「これは本です」の違いが分からない
母語力が低い子どもたちの中には、「単語や語句」と「文」の違いがよく分かっていない子もいます。たとえば、〈this book〉と〈This is a book.〉の違いです。
このような「単語や語句」と「文」の違いが分からないのは、もしかすると普段の会話(母語での会話)と関係があるのかもしれません。
母語力の低い子は普段、文ではなく単語で会話をすることがよくあります。
「部活は忙しいの?」と聞かれて、「来週、試合」と答える。「教科書を出して」と言われて、「学校」(学校に置いてきた、の意)と答える。このように単語だけを使って会話をするのです。
単語だけでの会話は、聞き手がその意味を推測しないかぎり成り立ちません。たとえば「学校」という単語の中に、「学校に置いてきた」という意味は、本来含まれていませんからね。
ですが子どもは、「学校に置いてきた」という意味で「学校」とだけ言ったりするのです。つまり子どもの頭の中では、「学校」という単語と「学校に置いてきた」という文が同じものとしてとらえられているのでしょう。
そうだとすると、〈This is a book.〉(これは本です)と〈this book〉(この本)も、同じものとしてとらえられている可能性があります。子どもの頭の中では、次のような理屈になっているのかもしれません。
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「これは本です」という文は、目の前にある1冊の本の話をしている。そして、「この本」も、目の前にある1冊の本を指している。ということは、どちらも目の前にある本のことを言っているわけだから、この2つに違いはない。
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そんなふうに考えることで、「これは本です」と「この本」の文法的な違いが見えなくなるのかもしれませんね。
ここまで、「母語力の低さ」という観点から、〈This is ~.〉を訳すにあたっての問題点を探ってきました。
この問題点から見えてくるものがあります。それは、「母語力に注目することの重要性」です。
母語力に注目することの重要性
英語を教えるときは、(当たり前ですが)子どもたちの「英語力」に注意が行きます。ですが、子どもたちが問題を解けなかった場合、「母語力」に意識を向けることも大事です。そうしないと、子どもが理解できないまま、文法の解説をしてしまう恐れがあるからです。
英語の問題を解けない原因は、母語力にあるのかもしれない。英語ではなく、母語のレベルで何か引っかかっているのかもしれない。
そんなふうに母語力に思いを巡らせ、母語力に応じた解説の仕方を考え出す。英語を教えるときには、そういう工夫も求められているように思います。